2011/04/30

伊豆の国市の名物おじさん

最近バタバタとすることが多くて、久しぶりの更新です。

まずは洗濯ボランティアで来られていたのですが20日間の活動を終えて静岡に戻ることになりました。

文化センターの避難者からの寄せ書き

洗濯おじさん事すダッチの作った向日葵
マグニチュード7の余震が在った時に多賀城市に到着して市内の避難所を回り洗濯ボランティア活動をしていました、ママチャリレースなどで伊勢海老おじさんとして知っている人は知っているちょっと変わり者の心の暖かい方です。

本来は有給を使い6日間だけの活動を予定していたのですが、避難所での洗濯事情や、現地コーディネート、会社への要請により20日間の活動をし、機材を積んだトラックを気仙沼へと無償レンタルすることとなりました。

2011/04/24

子供ランド

文化センターには子供ランドという子供たちのためのスペースがある。
発起人は東北学院大学の学生で彼も被災者である。

震災後子供たちはかなりの人数避難しておりそんな中彼が見たのは一人でポツンと佇んでいる子や、兄弟でずっと一緒に居る子達でした。
震災のショックと混乱の為かあまり笑顔は見られなかったそうす。

彼が思ったのは本来なら子供は元気過ぎるくらい走り回って騒いでいるものなんじゃないか、なのに今目にしている子供は元気が無く特に誰と話をするわけでもなくボーッとしていたり、寂しそう?つまらなさそうにしている子ばかりです。

そこで彼が何か出来ないかと考え館長に子供の遊べるスペースを提供して貰うことをお願いし子供ランドを立ち上げました、しかし彼は何をどうしたらよいか悩みとある大学の教授に子供ランドの立ち上げの手伝いを申し出て現在の原型が出来上がりました。

最初は子供たちはあまり集まらず彼は一人ぼっちで居る子供たちにみんなで遊ぼう、「みんなで遊ぶと楽しいよ。」と笑顔で声をかけ一人ずつ子供ランドへ集まる子を増やしていきました。

子供たちはすぐに友達を作り避難所へ届いた玩具でみんなで遊ぶようになっていき笑い声や辺りを駆け回る子が増え始めました。

彼は他にも子供ランドの手伝いをしてくれる被災者ボランティアを募り、ボランティアセンターや災害対策本部、支援者などと連絡を取り子供が楽しく安全に遊べるよう考え悩み今の形にまで作り上げていきました。

彼の思いは発足時も今も変わってはいません、元気に楽しそうに遊んで笑って欲しい、その思いでずっといままで運営してきました。

5月9日には彼は大学が始まります、今後今のように子供ランドに携わっていくことは困難になってしまいます、そこで避難所へ訪れる色んなボランティア団体に引き継いで貰うことを考え声をかけ始めました。

すると最初に立ち上げを手伝って貰った大学の教授から国際的な公益財団法人を紹介してもらうことになり今まで自身が大切にしてきた思いと一緒に運営を引き継いで貰うことにし、その財団法人から一度打ち合わせをしたいと言われ連絡を待っていましたが一向に連絡が来ませんでした。


「どうしたら良いすかね?」と彼に尋ねられ、詳しく話を聞くことになりました。
話によると立ち上げを手伝ってくれた教授がコーディネイターとなり貧困国での子供育成支援をしている公益財団法人を紹介してもらい後は打合せだけで先に進まないんですよとのことで、それなら自分から連絡を取り打合せに来てもらい自分の思いとこれから先の運営を伝えるべきだと伝え不安なら彼と私と相方と3人で一緒に打合せにでるよと話したのは昨日の事でした。


泥と水のみでできてます。
すると偶然か必然かそのコーディネイターの教授が今日子供ランドへ泥団子を持って訪れたのです。
聞いていた話ではいい人だと聞いていましたが、引継ぎに際しての具体的な打合せの日程や運営に関しての話をしようと挨拶を済ませ本題へ移ろうとしたとき、今までの印象をヒックリ返すようなことを言われました、具体的には書けない内容ですが、要は「行政から委託され、もう進み始めてるプロジェクトだから後はもう私たちが勝手にやるから余計なことはしないでね」的な事でここの館長も承認済みとの事でした。


そんな馬鹿な話がある訳はありません。
今まで子供達のことを想って活動してきた彼の想いをないがしろにし、子供達のこれからの環境を打合せも無く引き継ぐことを許せるはずはありません。

いったん引き下がり館長へ事実確認を取りに3人で向かいました、事情を説明し事実どうなっているのか確認していると、帰ったはずの教授が入ってきました、そこで話していると事実とは全く違い、その教授から、どちらにしろ大学が始まったら今までのように活動が出来るのか?個人ボランティアが何かあった場合責任が取れるのか?と詰め寄られました。

しかしこちらとて子供ランドの責任者はいまだ彼であり、今現在行なっている活動より公益財団法人のもってくるプランンの方が子供達のためになるのなら其処は潔く引き下がりますがまずは公益財団法人の方々がどんなプランなのかも確認していないので引き下がることは出来ません。

その旨を伝え公益財団法人の方々に来館して貰うことになりました、15分後公益財団法人の面子が到着し再度、席を設けてこちら3名、教授側3名と館長合わせ7名で話し合いが始まりました、まずは自己紹介から始まり公益財団法人の運営プログラムを確認、A4用紙一枚の取り急ぎ作られた陳腐なプランでしかありませんでした、内容はさて置き蓋を開けてみるとその教授が曲者でした、コーディネイターの実績が欲しかったのでしょうが、そんな自分の事ばかり考え子供達のことを考えていないようなものに子供ランドを託すことは出来ません、公益財団法人はというと日本での活動は今回が初の試みでした、要は教授に踊らされていたのです。

とは言うものの国際的にも実績があり、子供達や彼の思いを考えてくれているのは伝わりました、そこで出た結論は彼を筆頭に館内ボランティアと公益財団法人とで協力し、子供ランドにとって一番良い方向を探ることで1名を除き一致しました。

しかし残された時間は余りありませんし、公益財団法人も完全には信用できません(教授との関係)

いま自分に出来ることを災害復興支援サークルに出来ることを今まで受けてきた支援や恩を最大限活かし、還元していきます。

2011/04/23

びっくり!!

更新中に余震でした・・・
福島県震度5弱津波の心配が無いということで、避難指示は出ないため建物の破損が無いかだけ確認。


えーっと
続きですが今後の予定としては自転車の修理は週に4日行ないます。
文化センターの子供の人数集計しすでにこちらに届いている自転車から配布予定。(集計出次第)
レンタル自転車は11台での運用を継続。
28日に石巻・東松島の避難所へ自転車70台届けに行きます。

避難所運営については、被災者ボランティアとNPOとで現在モラルが低下してきているので改善計画と子供に対してのモラル教育プログラムの構築を打ち合わせとコーディネイト。

また個々のメンタルケアを目的としたカウンセリング茶室の開設をすすめていきます。(現地の茶道家・華道家コーディネイト)

2011/04/17

避難所から自宅へ

多賀城市の瓦礫の量も以前より少なくなって(まだまだ大量にありますが・・・)きました。
ライフラインの復旧によって自宅が残っている方は帰られたり、また県営住宅、市営住宅が当選して避難所を後にする家族などもちらほらと目に付くようになって来ました。

最近暖かな日が続いたおかげで桜も5分咲きとなり避難所の子供たちとボランティアとで花見兼送別会のような物を行いました。



自宅からボランティアで来ている高校生などは21日より学校が始まってしまうため、本日を持って終了の方が5名程おり、震災の混乱から一月が経過しその間避難所の中で家族のように毎日顔を合わせて励ましあい、笑いあい、心配しあい生活をしていたので良いことでもあり寂しいことでもあり涙で顔をグシャグシャになっている者も居ましたが最後は「ありがとう、お疲れ様でした」の言葉で送り出しました。


こうして避難所から離れて行く者も居ますが、それは一部で現状では約500名位は家も流され仮設住宅や、住めるところが見つかるまでは何ヶ月もの間この避難所生活は続いきます。

避難所の生活環境は日々良いものへと変化をしていきますが、プライバシーは保たれず洗濯もままならないのが現状です。

自転車ボランティアに関しては多賀城市を拠点にし近隣の市町村から譲渡や修理、レンタルなどを広げ始めています。

2011/04/15

気仙沼へ総合体育館。

総合体育館へレンタル自転車、修理のニーズがどのくらいあるのか確認をしに行きました。
避難所には1000名の避難者が生活しており、設備、支援が行き届いていたのには驚きました、食事は自衛隊による炊き出し班からの配給と、ファミレスチェーンからの配給を3箇所で配り量的には満足行く量があり、施設内に内科も城設してました。

洗濯機は最近設置されたらしく6台が稼動、子供の保育設備、運動場も広く一つの町でした、避難所は高台に位置し車で非難している方も居ましたが車、自転車、家を流された方が多いため移動手段は徒歩の人が殆どでした、館長に話を聞いてみたのですがやはりレンタル自転車があれば需要はあるようなので今後気仙沼市での避難所の統廃合が終わったらある程度の人数のまとまった避難所へ連絡をとり自転車ニーズ数の集計と輸送の調整をします。

現在の気仙沼は話しに聞いていたように被害のある地域の範囲は広く沿岸部では一般車両は通行できず瓦礫、車、船の撤去は殆ど手付かずで残っていました、建物は倒壊の危険があるものが多くボランティアは入ることは出来ません、ボランティアの入れる地域は津波の被害の端の部分くらいで、道路に堆積した砂は風が吹くたびに前が見えなくなる位まで埃が舞い上がってます。

場所的に車でないと気仙沼へは入ることが出来ず個人でのボランティアの方はよほど装備をしっかりしてなければならないでしょう。

ボランティアは一日100名~200名活動しており多いときでも300名くらいです、ニーズの数からすると1/4くらいの数しか稼動できていないでしょう。(殆どが団体で現地入りしています、個人ボランティアは少ないです)


避難所の数も70ッ箇所以上有り約6500人の避難者が避難生活を余儀なくされています。

2011/04/12

気仙沼市

気仙沼市の4月12日現在の現状です。



4月1日まではボランティアセンターも機能しておらず現在も建物でなくテントでの活動となっています。
本来ならボランティアセンター主導で支援を行うのですが、津波の被害により社共そのものも被害を受けどうすることも出来ない状態で各地からボランティア団体(NPO)等が入り運営をしているのが現状だったそうです、一ヶ月たった今でもやっと道路の瓦礫を横に寄せるのが精一杯で他の被災者の住宅の清掃などは殆ど出来ていないようです。

基本的にボランティアが単身で向かうにはかなり厳しい状態が続いており、受け入れを出来るようになるまでにはまだ時間が掛かってしま居ます。

装備は防塵マスク。防塵めがねなどのヘドロが乾いてその塵が待っているので絶対に必要な装備ですしその塵を吸って肺炎にかかる方が多く居ますんでこれから気仙沼に入ることを考えるなら、テントと同じくらい必要な装備ですので忘れないように。

多賀城市での活動が落ち着き装備を整えられれば気仙沼のボランティアへ向かいたいですがまずはいきなり現地に入って迷惑にならないよう、情報収集と現地ボランティア、VCとの調整を行います。

4月11日震災後一ヶ月経過

今日も各地から色々な支援が届いてきています。
西多摩地区理容師協会からは休みを利用して利用しさんが多数避難所を訪れ散髪をそして、コインランドリーメーカーによる洗濯、デイケアセンターによる足湯、自動販売機メーカーによる飲み物の提供、被災者の中からネイリストによるネイルケア、医師団による回診、聴覚障害者への手話通訳など沢山の支援者からの支援が届いています、利用されている避難者は日々これからにを考え、行動し、今の生活にはストレスも多くあるでしょうが笑顔を取り戻そうと頑張っている姿があります。

最近は自転車ボランティアとして自転車の修理、整備、点検を行っていましたがレンタルサイクルも始められるようになり避難所の足として機能するようになって来ました、明日には自転車(約60台)車、義援金が到着し人員も5人体制で活動できるので、他の避難所を回り一人でも多くの足を提供していきます。


時間の経過は早いもので震災から一ヶ月が経ちました2時46分には各避難所で海に向かって黙祷される方々も多くおられ、「もうあれから一ヶ月たったんだね」という声を多く聞きました。

この一ヶ月間で避難所の生活には慣れてきた避難者も、避難所によって支援の行き届き方には差があります、ましてや復興に向けて歩み始めて居る被災地といまだ手を付けられない被災地と幅の広い支援の手は今後も必要になってくるのでしょう。




宮城県では震災前の状態へ戻ることは出来ないと、新たに10ヵ年の町造り構想で進み始めていますし福島原発問題ではこれからのエネルギー事情、食物自給率、インフラの非常事態での経済活動の麻痺などこれからの日本の問題点がこの大災害で浮かび上がってきました。

特にエネルギー問題では戦後の混乱期から現在まで著しく成長し無駄が多くなり経済的にはとてつもなく大きな国になりました。

ある学者がいった言葉で「日本の戦後は終わり、災後が始まった」との言葉があります。
確かに一つの区切りとしてこの震災が日本のこれからの歩む道を考える良いきっかけへとしなければいけないのでしょう。





2011/04/10

避難所格差

昨日予定されていた避難所の統廃合が地震の影響で本日行われました。
約150名ほどの入所が本日ありました、統合前に居た避難所では食事は暖かい弁当が3食配給されていたようで、寝床もこちらより広く清潔感が合ったようです。

文化センターへ避難されている方は被害の大きい地域の方が震災直後から入所されていて家はもちろん家財道具一式全て流され着の身着のまま避難されてこられた方が多く入所されています。

確かに文化センターでの食事の配給はギリギリの内容ですが(未だにオニギリ一個とチョコレートの時もあります)皆さん感謝をしありがたく頂いています、本当に何も無くどうすることも出来ない人からすると、屋根があり、毛布を提供して貰い物資で送られてきた衣類を着用して生活をしているので、文句を言う方は居ませんでした、しかし今回の統廃合で来た方で家の2F部分は残っており、先に述べたような待遇の良い避難者から来た方は、「この避難所は待遇が悪いわね」や「こんなもの食べられないわ」、「こんなところで寝るのか」等の声が聞かれます。


確かに良い待遇の避難所から来られた場合決して満足いく待遇ではないでしょう、しかしずっとこの避難所に身を寄せている方からすれば現在の待遇でもありがたいと思っている方が殆どです。

それが統廃合で入所され不満の声を聞くと「なら出て行けば」「食べたくなきゃ食べなきゃいいじゃない」私たちは今までこの生活をずっとしてきて不満なんていわなかったし感謝してんだから、文句言うくらいなら出て行けばいいのよ。

避難所格差があることが浮き彫りになって来ています。

皆さん避難所生活も明日で一ヶ月となりストレスをためているのでしょうが、これからもうしばらくはこの避難所で一緒に生活をしていかなければならないのですから、助け合える関係を築きながら残りの避難所生活を少しでも快適に過ごしてもらいたいと思居ます、手の行き届いた避難所とそうでない避難所とで格差が生じていることは実際に起こっています。

これは多賀城市の中だけの話ではなくもっと広い範囲で見渡してみると石巻・気仙沼・南三陸町などでは未だに物資の行き届いていない地域がある一方で復興へ向けて動き始めている自治体もあり今回の震災が広範囲で地域によって復興への進捗も大きく異なっているのが現状です。

2011/04/09

各地からの支援

4月8日地震翌日
本日から3日間静岡県伊豆の国市のクリーニング機器メーカーより、機材と発電機を持ち込みクリーニングの支援が文化センターにて行われる予定でしたが、停電のため初日は水道が使えず活動が出来ない状態でした。

しかし発電機があり避難者の携帯電話の充電を昼過ぎから18:00まで行い約200名~300名通信手段の確保の支援と変更し活動をされていました。


また同県別団体http://www.sccjp.net/「桜木クリスチャンセンター」による豚汁・ご飯の炊き出し1000食分の支援活動行われました。
避難所はじめ近隣の在宅避難者へ暖かいご飯を食べて貰いたいと前日一日がかりで仕込みをし大型トラックとマイクロバスで来所され、久しぶりに食べる暖かいご飯、具沢山の豚汁をみんな笑顔をこぼしながら中庭に集まり有志者による演奏を聞きながら、ほのぼのと暖かな時間を過ごす事が出来ました。


電気・水道・ガス・食事・お風呂等様々な物が普段当たり前のようにある時代ですがとてもありがたい事なんだと、そして人と人の助け合いというのがとても暖かく嬉しい事なんだと、こんな時だから実感する事が出来たんだとおもいました。

2011/04/08

4月7日マグニチュード7.4

23:32
そろそろ寝付こうかというときに、地鳴りから始まり縦揺れの後30秒くらいの横揺れがありました。
地盤の固い頑丈な大きな建物(文化センター)に居たためたい関心度は4~5位の揺れを感じ、停電。
その後すぐに自家発電に切り替わり津波警報が発令されました。

避難所の方がザワザワと起きてこられホールや通路に出てこられ始め、広域避難所に指定されている文化センターへは近隣の避難者が来ることは予測されていました。

寝ることはできないだろうと思い取り合えずカップラーメンを食べることにしたのです、案の定食べ終わるころには避難者が来所され始めましたが、入所されている方々を自分の確保している場所へ戻ってもらい、入り口を空け避難者の受け入れを始めました

まずは職員、ボランティアで館内にある使っていないイスを集められるだけ集めホールや通路に置き避難者の誘導を始め、警備員2名に館内巡回、館内損傷の確認をしてもらいました。

この時点ではまだ責任者は到着しておらずボランティア11名、警備員2名、当直館内スタッフ1名で防災無線・館内巡回・避難者誘導を行っていました、その辺りで責任者が到着し状況報告と指揮権を渡し、停電のため水道が使えなくなることが予測され館内全てのトイレを使用禁止にし損傷のあった西口(三箇所の出入り口のうち一箇所)を封鎖またたくまに道路は渋滞、交通整備は県外からのボランティアや有志者による交通整備が始まりました。(信号は全て消えていました)

防災本部との連絡、自衛隊への燃料の要請、東北学院大学(工学部)のグラウンドを緊急避難所として開放の要請などバタバタしていました。

大体0:15位で混雑は収まり次は水の確保と自家発電の燃料の確認をした辺りで津波警報は解除されました。

その後避難者は自宅へ戻られる方が多く(避難者は300名~500名)そのまま宿泊される方には毛布を配り、帰りの車で混雑するので交通整備(警備員1名他有志者)が行われましたが残念なことに帰りの避難者の車に1名轢かれてしまい(懐中電灯等持っておらず)負傷し救急車要請。
近隣で火事も1件ありました。

3:00から自家発電器の燃料(灯油)を200Lドラム缶から18Lポリタンクへ移し490Lの燃料タンクへ補充を始めました(約180L)大体2時間半で燃料245L使ってしまうので再度5:30に補給するまでの間休憩し(仮眠)朝を迎えました。

2011/04/07

自衛隊後方支援活動



多賀城市文化センターの駐車場で水道・ガスの通っていない時期から朝6:30~19:30まで洗髪場を設置していただいていました、約500名避難者が利用して居ましたが、本日午前11時にて終了しました。

それに変わり4月7日より多賀城駅前で沖縄県駐屯地の後方支援隊が入浴施設を設営してくださいました、いまだガスが復旧しておらず3月11日以来約1カ月もの間湯船につかる事のできなかった避難者や、周辺住人のホット一息つける癒しの施設です。

















「出来ることを少しずつ」
距離の離れた避難所や住宅、高齢者や体の不自由なかたにとってはこの入浴施設へまでの交通手段が必要になってきます。
車が無事であれば燃料事情の改善により通いやすいのですが、車も無く自転車も無い方々は徒歩で行かなくてはいけないのが現状です。

現在自転車の点検・整備・修理のボランティアを行っていますが後方支援からの中古自転車の支援が徐々に届き始めています。
4月9日の避難所統合により多賀城市は3箇所の避難所に集約されるのでその避難所全てにレンタル自転車を設置し、入浴・買い物などでの足として利用してもらおうと調整中です。

また車での送迎が整備されれば全ての方に利用してもらえるでしょう。

2011/04/05

社会福祉協会

現在ボランティアは基本的には自治体主導で受け入れています。
ですが社会福祉協会(社共)の災害ボランティアは各地域でルールが違い、効率的にボランティアを派遣している地域もあれば、いまだ震災直後のバタバタを引きずったままの地域もあります。


一般的にはボランティアに参加するとき地域に災害ボランティアセンターへ朝受付を済ませボランティア保険に加入しニーズのあるお宅へ派遣され清掃作業などのお手伝いをするのです。

今日は、災害ボランティアセンター本部の運営を手伝ったのですが簡単に仕組みを説明します。
本部には五つの班があります。

ボランティア受付班・・・県内新規・県内継続・県外新規・県外継続の受付を分け、新規のボランティアには受付時はボランティア保険に加入してもらっています。
県内・県外を分けているのはボランティア数の集計時必要なために受付窓口は4っつに分かれています。

ニーズ受付班・・・こちらはボランティア要請を電話や直接面談で被害状況を伺い派遣日時などの打ち合わせをする班です。

マッチング班・・・ニーズに合わせボランティアの派遣人数を調整し派遣先での活動内容、資材装備、注意事項の説明を当日集まったボランティアと打ち合わせをする班です。

資材班・・・ボランティアへ活動に必要な資材の管理、戻ってきた資材の清掃、過不足をなくすための数量管理をする班です。

送迎班・・・活動場所までの送迎を担当。

少しでも効率よく災害ボランティアセンターを運営していくために、このように班分けされているのですが一つデメリットとして横のつながり(班と班)が薄い逆に効率が悪くなってしまうことです。
班の中には社共職員、ボランティアが入り混じっており、他県の社共職員が短い期間で入れ替わっています。

先に述べたように効率良く運営していくためには各班のリーダーが他の班と連携をとり意見を出し合うことが必要なのですが役所組織の為なのか、多くの方が思っていることを口には出さないでいます。


まあそれはそれで仕方の無いこととして消化することにしたのですが、ちょっと残念な気持ちに・・・



話は変わって、ここ2~3日避難所で生活している元気に走り回って遊んでいる子供たちと触れ合う機会が多く笑顔を見ると安心します。

「出来ることを少しずつ」

自転車ボランティア

津波の押し寄せた地区とそうでなかった地区とでは、生活する上での足(交通手段)事情が違います。
津波により自動車は浸水し使い物にならなくなった車の数は数え切れないほどの台数だということはいわずと知れたことだと思います。

最近ではガソリンの供給の改善が目に見えて良くなり自家用車での移動が多く交通量が目に見えて増えていますが、自家用車に乗っている方々は、高台や、内陸部の方です。

沿岸部、津波の押し寄せた地区では自動車の入手もなかなか出来ないのが現状です、なぜかというと家財全て流されたお宅が多く自治体からの支援金、銀行からの一部払い出しを受けては居ますが、その中から中古車を購入する資金を捻出できないからです。

この震災での車需要の拡大に伴い中古車屋が(一部だと思いますが)足元を見て値上げをし低価格の在庫が無いのが現状です。


ただ足が無ければ、買い物へ行くことも、被災した住宅の跡形付けへ行くことも、役所等への申請等も歩いてはそうそう出かけることも出来ません。

幸い自転車が無事(ヘドロにまみれ瓦礫の中に埋もれている)なものが多く、避難所で生活される方にとってはとても有用な足として重宝しています。

しかしいまだ道路には瓦礫、ガラスの破片など散乱しておりパンクしてしまったり、瓦礫から持ってきてもブレーキが利かなかったりと修理、整備の必要な自転車が多くあります。

地元の自転車屋も津波の被害に合い営業は再開されておりません。

埼玉県から来られたボランティアのかたで自転車修理でボランティア活動をされている方と現在同じ場所で生活をしています。
多い時には約50台少なくとも10台は一日に修理・整備の以頼があり大忙しで活動されております。
最初は4名で現地入りをしていましたが、他3名は戻られ一人で活動をしなければ成らない状態でしたが、海城高校山岳部からのボランティア2名(中央2名)が活動のお手伝いをしたいと名乗りを上げました、彼らは今年3年生で受験を控えていたのですが春休みをつかい、何か自分たちに出来ることはないかという思いで今回活動に参加する事をきめたそうです。
(4名とも学生さんで春休みを使い東京よりボランティアへ参加)
春休みも終わり4月3日で引き上とになりました。
みんな明るく気さくな方で状況に合わせ活動していました。

「お疲れ様でした。」



ちなみにそんなわけで後発の自転車ボランティア部隊が到着するまでの間、市内の避難所を回り自転車修理のお手伝いです。

2011/04/03

福島ビックパレット(避難所)現在

福島ビックパレットでは現在2,274名の避難者が避難しています。
大きい建物で物資なども充実しています(炊き出しあり)
しかし避難所の環境は人口密度後多いため色々と悪いところも目立ち始めています。


物資もいきわたり、避難者の方も、避難所での生活に慣れてきて、そのせいで避難者どうしでの衝突が少しあるようです。

家族が、配給などで出かけると周りで悪口が始まったりすると、避難者の方が漏らしていたそうです。
元々寝返りしたら当たるような距離で生活しているので、不満もたまると思います。

一人一個の配給を、感謝してもらっていく人と、服の中に入れて大量に隠し持っていってしまう人や、
服を着替えて何回ももらいに来ると人がいるそうです。

一人一人の場所も決められている訳ではありません、一部だと思いますが隣に居た方が避難所を出るとそこをダンボールで囲い自分の場所を広くしていく人が見受けられるようです、その反面体の弱いお年寄りなどは寝返りも打てないような狭い場所で「これで十分です」と生活されていたり、悲しい事に少しモラルが低下しているのが現状だそうです。


確かに何時自宅に帰れるのか避難所にはいつまで居れるのかなど、原発問題で不満が溜まってきているのだと思います。


一部の人でしょうが早く心に余裕を持てるような生活を取り戻してもらいたいと思います。






追記


南相馬市では原発問題のためいまだに支援物資が行き届かず、苦しい状態が続いているようです。
昨日多賀城市へ来たボランティアの方からの情報です。(それまでは福島ビックパレットで活動していました。)



支援ライブIN多賀城文化センター

ジャンベ、三味線、民謡のコラボライブです。
一時でも笑顔になってほしい単純にその為だけに行われたライブです。


4月2日多賀城文化センターにて


観客は皆さん避難所に身を寄せている方々です。
お年寄りが多くジャンベなど見たことも聞いたことも無いという声がありましたが、皆さん手拍子で盛り上がり笑顔になって楽しんでいました。


この避難所には約550名の避難者が生活をしています、ですが学校が始まると市内に10箇所ほど在る避難所が3箇所に統合されてしまうのです。(現在多賀城市の避難所への避難者数2155名)

避難所での生活は長くなるにつれて余震等での不安、プライバシーが確保されていない等のストレスがたまってきます、そこに新たに統合により受け入れがあり約1000名位まで増えてしまい少しピリピリとしています。

支援ライブのような活動は今後も継続して行っていくようですが、やはり心の底から笑った笑顔を見れるまでにはもう少し時間は掛かるのでしょう。



受付累計 2,639人
稼働者数累計 2,401人
ニーズ受付件数 584件
稼働件数 529件



2011/04/02

ボランティアへの参加

これからボランティアへ参加しようと思われている方々へ、参考までにどうぞ。

特に医療関係、福祉関係のお仕事、免許をお持ちの方は行こうと思う地域の災害ボランティアセンターへ直接連絡をし、どういうことが出来どのくらいの期間できるのか連絡を取ってから準備をしてください。

資格など何も無い、でも体は丈夫と言う人は県外ボランティア受け入れをしているボランティアセンターへ直接来るとニーズは多くあります(長期でニーズはあります)
ただ通える方は通いを考えてください。

通うのはちょっとしんどいなという方は避難所で宿泊できるか確認してから来てください。
ただ食事、寝袋、毛布、着替えの用意はしっかりとしてから来てください。
十分な栄養は現地では取りにくくなっています、ビタミン剤などは各自用意して置くように
避難所でもビタミン不足が目立ち始めています。

もちろんの事ですが洗濯、お風呂は無いものと考えてください。

半年から1年はボランティアニーズは間違いなくあります
ニュースや話題でこの震災が取り上げられなくなってからボランティアの絶対数は減少していきます
逆を言うなら少し時間がたってからの活動で人手不足が危惧されていますので、この先の自分のスケジュールを確認して夏休みなどを利用して活動していただけると良いと思います。

復興にはかなりの時間が掛かります、ですのでこの東日本大震災の記憶を薄れさせない様、根強く復興の支援を出来ることがこれから先必要だと思います。


募金という方法も復興には欠かせない立派な活動だと思います。
みんなで出来ることをこつこつ行い一日も早い復興を支援していきましょう。

仙台工業高校ラグビー部

今日は町前町での活動でした。
多賀城駅から国道45号線(震災直後津波で通行止めになっていた地区)沿いの
ショッピング街でした、地震後40分で15mの津波が町を飲み込んでしまった町です。
高いビルには人が押し寄せ車を持っている住人は車で避難しようと大渋滞になり、ビルに入りきれなかった人達と、車に取り残された方々が波に浚われてしまったそうです。
上記写真はジエチレングリコール(危険物)のドラム缶です。
このように街中にPGや危険物のドラム缶、硫酸の入った容器(200L)など散乱しています。
危険物を発見したとき本来は所有者へ連絡するのですが数量が多いため、消防へ連絡して撤去をしてもらっています(管轄の消防署)

ボランティアには高校生も姿も良く見かけ県外・県内・地元問わず活躍しています。
仙台工業高校の3人組みは被災はしていませんでしたが、昨日今日と何か自分たちに出来ることをしようと活動をしています。

中野栄町

多賀城VCより中野栄町へ派遣
この地域は津波2mを超えている地域です
化学薬品を扱う工場などのある工業団地に隣接した住宅街です。
津波は河川からと港からも両方から挟まれるようにして襲い掛かってきた地域で
港に置いていたコンテナやバスなどが勢いよく押し流されてきました。
作業中はこの辺り一帯に硫酸が流れていたため慎重に作業に当りました
1F天井部分まで水につっかって家具、家財は殆ど使えない状態になってます
8名で家の中のものを道路部分に全てだし、自治体が回収に来るのですが範囲が広すぎて
回収は追いついていません、この付近の回収には1~2ヶ月は掛かるでしょう。
石灰が不足しているのか行き届いてないだけなのか、散布の終わってない場所が多くあります

周辺のコンビニ、スーパー、GSなど営業を始めている店舗もちらほら見受けられますが
時間制限があったり、数量が限定されています。
タバコは全く入ってきていません。

2011/04/01

多賀城市文化センター

3・31
塩釜市で港町(1.8M津波被害)での活動を行いました
ヘドロが15cmくらいはたまっており、カキだしを行う
畳は水分を含み大の男3名でやっと運べる位まで重くなっていました。
辺りはまだ車などそのまま撤去されては居らず。


車で来ていた人に多賀城まで送ってもらいVCを移動

多賀城の避難所ではインフルエンザ、他感染予防に力を入れており
自衛隊の衛生班・近所の病院より医師が派遣されており様子を伺い話をしながら巡回をしています。

この避難所では避難をしている中学生・高校生・大学生が中心となり避難所の食事の配給、小さな子供の面倒、近隣の情報収集、などに力を貸しています。

被害の大きい地区と全く被害の無い地区とが河一つ隔てており被害範囲は広く手の付けていない場所もいまだ多くこれからVCの活動が活発になって来ると思われる。